親父の死

一気に秋めき、今日は富士山の初冠雪の便りが届きましたが、皆さんお元気にお過ごしでしょうか?

こんばんは、オジサンです。

コロナより自らの行く末が心配な国会議員達が、次期首相の事で大騒ぎしています。日本の議員の本性を見たような気がして複雑な思いです。

親父の死

昨日(9/6)未明、オジサンの親父が永眠しました。入院から丁度1ヵ月の出来事でした。87歳でした。親父とオジサンは別居だったのですが、お袋の話しでは「家に居た頃から調子が悪そう」で、よく「楽になりたい」と言っていたようです。

親父は大の病院嫌いで、ちょっとやそっとの事で病院の門を叩く事は無く、余程の事が無い限り病院に掛かる事は有りませんでした。今回も相当辛かったと思いますが最後まで病院に行く事は無く、最後は知り合いの看護師さんに説得されてようやく病院に行った程です。

その時点でかなり病状は悪化していたようで、担当医の話しでは「もって2ヵ月、早ければ1ヵ月程度」と言われ、お袋はかなりショックを受けたようです。

亡くなるまで、何度か「今日、明日が・・・」と病院から連絡を受け、その度に病院で待機する日が続きました。お袋もみるみる痩せ、なんだか溶けて無くなりそうで、親父よりそちらの方が心配になったりしました。

病院から「いよいよ危ない」との連絡を受けたのが9月6日1時40分、すぐに着替えて車で病院に駆け付けましたが、オジサンが到着する10分前に息を引き取っており、間に合いませんでした。

親父の肩に手を掛け「苦しかったねぇ」「ご苦労さん」と声を掛けましたが、それ以上の言葉は出ず、ジッと親父の顏を見るだけでした。親父の身体はまだ温かく、まるで眠っているようで、死んでいるとは思えませんでした。

親父との思い出

親父は商人でしたので、朝が早く、夜も8時近くまで毎日仕事をしていました。いつもオジサンが目を覚ますと親父は市場へ行った後で、既にその姿はなく、お袋と二人で朝飯を食べました。

オジサンがまだ小学校の低学年の頃、親父は爺さんと一緒に商売をしており、その頃は結婚式の「口取り」(分からない方はググって下さい)や、葬式の料理等の仕出しもやっていて、オジサンは眠い目を擦りながら鯛の尾頭付きを焼かされたものです。オジサンが鯛を焼いている傍らの竈では親父が羊羹を作り、キントンを煮ていました。手に沢山の火傷痕を作りながら・・・。

昭和30年前半、まだ1回目の東京オリンピックも開催されていない頃です・・・。

親父は野球が好きで、仲間で野球チームを作り休みの時などは野球を楽しんでいました。後に中学のグラウンドに夜間照明が付くと、ナイターで野球やソフトボールを楽しむようになり、野球でもソフトボールでもピッチャーで4番をやっていましたが、親父の実力がそうさせたのか、ただの我儘でそうなったのか、今では知る由もありません。

親父とはよくキャッチボールをやりました。オジサンが小学3年の時、初めて親父がグローブを買ってくれました。オジサンの家は決して裕福ではなく、どちらかと言えば「貧乏」に分類されたと思います。夕飯のオカズはいつも商売物の売れ残りで、米飯で腹を一杯にしていました。そんな苦しい生活の中から良くグローブが買えたと、今になって思います。

キャッチボールの時、親父はいつもピッチャーで、オジサンは何時もキャッチャーでした。家の前のマンホールをホームベースに見立てていました。

親父の商売は土曜日が定休でした。当時学校は土曜日半ドン(分からない方はググって下さい)で、昼飯は家で食べ、昼飯を食べると直ぐ外で、お袋が「夕飯だよ~」って呼ぶまで続けていた事も結構ありました。

余談ですが、オジサンがテニスで速いサーブを打てる(オジサンのサーブはいまだに速いのだ)のは、この頃に作った地肩が強いからだと思っています。

釣りにも結構行きました。夏はソーダカツオや鱚、秋から冬はカサゴ、タコ等が目の前の海で良く釣れたものです。夏休みの土曜日、朝から親父と釣りに出掛けるのは夏休みの何よりの楽しみで、お袋が作ってくれた朝飯(大概は塩むすびのみ)を抱えて小舟に乗り込んで海に出ました。

夏の暑い日の夜はお袋も一緒に小舟に乗り、海の上で涼んだ覚えも有ります。親父がオールを海に入れる度に光る夜光虫が奇麗でした。

アポロ11号が月面着陸した生中継を親父と一緒に見ていた時、親父が「アメリカはすげぇなぁ、こんな国と戦争したって勝てっこねぇよなぁ」とつぶやいた一言は今でも鮮明にオジサンの耳に残っています。親父は9人兄弟(当時は普通の人数)の5番目で、一番上の兄貴は特攻隊で戦死し、親父自身も空襲の時リヤカーの後ろに年下の兄弟を乗せて逃げ回った経験があったようです。そんな経験をしている親父だからこそ出た一言だと思います。

そんな親父ですがかなり短気でした。無言で灰皿を投げつけられた事は1度や2度では有りませんし、お膳をひっくり返すなんてのは日常茶飯事、1度はテレビを持ち上げて玄関のたたきに投げつけた事も有りました。

高校時代、オジサンがテニスの試合で負けて帰ると、風呂上りにパンツ一枚で正座させられ、竹のモノサシで太ももをピシリ、ピシリと叩きながら1時間近く説教された事も有りました。「どうして負けたのか」「何が足りなかったのか」「どうしたら勝てたと思うか」等が親父の質問で、それにオジサンが答え、それに対する親父の意見をコンコンと説明されました。結局最後は「練習量が足りねぇんだ」と言うのが親父の答えでした。

最後に

オジサンが親父と暮らしたのはオジサンが高校を卒業するまでの18年間しか有りませんでしたので、思い出と言えば小さい頃の思いでしか有りませんが、いまだにその思い出は鮮明に覚えています。

特にキャッチボールの思いでは鮮明で、オジサンが親父のカーブを捕れるようになったのはキャッチボールを初めて4年目の中学1年の時でした。それほど親父のカーブの曲がりは大きく、しかも不規則だったのです。

ある程度の入院期間が有ったので、今更悲しいとか、残念と言う気持ちは無く「その時が来た」と言う気持ちで親父の死を受け止めています。死ぬ4日ほど前から身体の痛みがひどく、モルヒネを入れていましたので、最後は苦しまずに逝ったと担当医から聞きました。それが本人と家族の願いだったのでそれは良かったと思います。

明日が通夜、明後日が葬儀ですが。オジサンは既に家を出ていますので、喪主はお袋、施主は弟に任せ、オジサンは家族として参列してきます。

散々怒られたり、喧嘩したりしましたが、今では親父さんには感謝の念しか有りません。子供の頃キャッチボールで使っていたグローブを棺に入れようと思い、実家の物置を探しましたが見付かりませんでした。オジサンも何時か向こう側の世界に行くのですが、その時また親父とキャッチボールが出来たらと思います。

ありがとう親父、またキャッチボールしようぜ!