楽譜を深く読み込んでるねぇ

新年も8日が過ぎ、七草がゆも過ぎ、正月気分もそろそろ抜けることと思います。

こんばんは、オジサンです。

オジサンは既に現役引退の身ですから、毎日が盆暮れ正月みたいなものです。今日1月8日は家族が事故に遭って丁度5年に当たります。入院当初は寝た切りも覚悟しましたが、5年経った今、支えが必要とは言え自力で足を運ぶ事が出来るようになったのは奇跡のような気さえします。日々、本当に少しずつですが出来る事が増えているように感じます。先日奥さんとは「もう一度子育てをしてるみたいだねぇ」と話しをしました。

楽譜を深く読み込んでるねぇ・・・

先日オーディオの師匠D氏宅へお邪魔した事はブログに書いた通りですが、そのとき聴かせて頂いたBach無伴奏チェロを聴きながら、師匠がポツリと言った一言が心に引っかかり、日夜考えていました。

それは「この演奏家(名前は失念)は楽譜を深く読み込んでるねぇ」と言う一言でした。殆ど録音は残していない演奏家(本来はオケの一員)だそうで、師匠もアナログ盤をCDに焼いて頂いたとのことでした。おそらくCDは出ていないと思います。

確かに「楽譜を読み込む」と言う事は演奏家の方と話しをしている時などに耳にする言葉ですが、実際の演奏を聴いてそれを、しかも「深く」と感じる事はオジサンの場合それ程有りません。

演奏のテンポや音色は演奏家によって違うことくらい分かりますし、どんなテンポ、音色を自分が好むかも知っている積もりですが、楽譜の読みの深さまで感じる事は全くと言って良いほど有りません。

そこでネットで色々調べてみたのですが、結構色々な方(ピアノ教室の講師が多い)が「楽譜を読み込む」と言う事に付いて書いていますので、その一部をご紹介したいと思います。

以下は田中恵美子氏のブログ「2023 日々の思い」からの一部引用です・・・下線、赤塗りは氏が引いたものです

「特に目に見えないものは、逆にそこに痛烈なメッセージが隠されている事も多く、そのメッセージを読み取る作業は沢山の時間と根気と、そして何より情熱が必要です。(中略)自分自身の”目と脳と情熱”で読みとった音楽とは本質が根本的に違います多くの時間と情熱を傾けて構築された音は、メッセージ性に溢れ、喩え用のない深い音楽に包まれていて終始心を打たれます」

この文章を読んで、オジサンはオーディオと相通じるモノが有ると感じました。「楽譜を読み込む」から少し話しは逸れてしまいますが、ご容赦下さい。

オーディオは音楽を再生し音楽を楽しむための装置です。音楽は「瞬間芸術」とも言われるとおり、空間に放たれた瞬間から消える運命に有ります。絵画や彫刻のように目で見たり手で触れたりできる訳では無く、目に見えないモノなのです。しかしそこに確かに存在するモノです。先日読んだ宮部みゆき氏著の本の中に出てくる「存在するが実在しないもの」と同じです。

氏の文章にも有るとおり「目に見えないものは、逆にそこに痛烈なメッセージが隠されている」と言うことをオーディオを趣味として40年以上いじり、音楽を聴き続けて来た今、痛烈に思い知らされた思いがします。

「そのメッセージを読み取る作業は沢山の時間と根気と、そしてなにより情熱が必要です」まさにオーディオもその通りだと思います。

「多くの時間と情熱を傾けて構築された音は、メッセージ性に溢れ喩えようのない深い音楽に包まれて終始心を打たれます」まさにオーディオもその通りだと思います。

多くの時間を掛け、限りない情熱を注いだ装置からは喩えようのない深い音楽が聴こえて来るのだと思います。

再生された音楽から「楽譜を深く読み込んでいる」事を感じ取れる師匠の感性とオーディオに掛ける情熱に感服しているオジサンです。

オジサンもあと何年スピーカーの前で頭を垂れ、BachやMotzartの音楽を聴くことが出来るか分かりませんが、少しでも師匠に近付きたいと改めて思っています。

PS:昨日師匠から電話があり、横浜時代オジサンにBachの音楽を教えてくれたF君と連絡が取れ、3人で師匠宅に集まる事となりました。F君はBachのカンタータなら番号を言うだけでその冒頭部分を諳んじる程のBach通でした(それ程聴き込んでいたのだと思います)F君とは横浜で別れて1度会っていますが、やはり30年以上振りの再会になりそうです。今から楽しみです。