ド・ミ・ソ

先日の大雨に続き、昨夜もオジサンの住む地域は大雨に見舞われました。幸い2回とも大きな被害は有りませんでした。先週の大雨、また今回の大雨で被災された方にお見舞い申し上げます。

こんにちは、オジサンです。

今年は春先の梅、桜の開花が早かったり、梅雨入りが例年よりかなり早かったり、梅雨入りしたとたんに大雨が連続していますが、皆さんお住まいの地域は如何ですか?

関東地方も昨日梅雨入りした様ですが、初日から大雨に見舞われてしまい、平日の今日は通勤、通学にも影響が出た方も居られたと思います。

雨が続くとテニスにも行けず、部屋に籠る事が多くなり、そうなると余計な事が頭の中を駆け巡ります。この何日かは「和音」と言う言葉が頭から離れません。

和音

コトバンクによると、和音とは「音楽用語。音高の異なる楽音を同時に響かせた時に生じる合成の響きをいう」となっています。フォークギター等で言うCとかDとかのコードと同じと思えば良いとオジサンは思っています。

ここで大事になる事は、「合成の響き」と言う事ではないでしょうか?

オーディオを少しいじった経験の有る方ならお判りいただけると思いますが、オーディオをいじりだすと「分解能」とか「音の分離」とか言う言葉が盛んに出て来ます。分解能が悪い音を「音がダンゴになる」なんて表現する事も有りますね。オーディオ雑誌やネット情報でも盛んに使われていると思います。

確かに分離の悪い音は聴いていて「籠ったような」音になりますので、そのような装置から「5月の爽やかな風」は吹いて来ません。しか~し、余りに分解能ばかりを追求していくと、なんだか聴いていてつまらない、バラバラの音楽になる事は有りませんか?

例えば弦楽四重奏で、或いはピアノソナタで同時に3つ以上の音を奏じて、それらがバラバラに聴こえたらどうでしょう?なんだか気持ち悪くないですかねぇ?

芯と響き

例えば交響曲の様な大編成の楽曲の場合、指揮者は各楽器の音(色)を区別する必要が有ると思います。そしてその各楽器が出した音(色)が聴衆にどのように聴こえるかを考えながら音作りをしていると思うのですが・・・。

しかし我々聴衆はホールの席に座って(できれば最上の位置で)その演奏を楽しむわけですよね。ですからオーケストラの各パートが出した音はホールに響いてから我々の耳に届くのではないでしょうか?

オーディオを極め、分解可能ばかりを追求していくと、まるで指揮者の位置で各パートが出す音だけを聴いているの様な感じになってしまうと思います。ピアノであれば、ピアノの中に頭を突っ込んで聴いているような状態・・・。

オーディオマニアの中には「指揮棒を持って(振りながら)」レコードを鑑賞する強者も居るようですが、オジサン的にはあくまでも一聴衆で有り続けたいと思っています。決して指揮者にはなりたくない。オジサンはクリップスブリテンの振るモーツァルトを聞きたいのであって、クリップスブリテンになりたいわけでは無いのです。

合成された響き

例えばド・ミ・ソの音をピアノで同時に弾いた時、ド・ミ・ソの音が明確に聴こえる・・・これは非常に大切な事だと思います。同時にドでもミでもソでも無い「合成された響き」がリスナーの耳に届く事も同じ位大切だとオジサンは思います。

オジサンはオーディオをいじり始めた比較的早い段階で「芯と響きがバランスした音」を目標に40年以上悪戦苦闘をして来ました。そして今、やっと「芯」と「響き」の正体を知ったような気がします。

各パートの音が合成された時・・・それこそが響きの正体の様な気がします。

オーディオをいじっていると「装置(部品)を換えたら音が増えた」とか「AよりBの方が分解能が良い」とか言う言葉を耳にしますが、それほど分解能を高める必要が有るのでしょうか?オジサンは疑問に感じてしまいます。分解能を高めすぎるとモニター的な音になり、その職業に就いている方には必要な音かも知れませんが、オジサンのような一聴衆にその音は必要ないのです。

五味康佑氏はその著書の中で、菅野沖彦氏宅の音を「まるでモニター室で聴くような音」と表現されていました。菅野氏は職業柄その様な音楽の聴き方をされていたのだと思います。一種の職業病の様なものでしょうか?

確かに全ての楽器の音は聴こえる必要が有ると思います。シューベルトのピアノ五重奏「鱒」を聴いた時、最低音のコントラバスが再生できないようではピアノ四重奏になってしまいますし、その音階が分からないようではやはりツマラナイ再生音になってしまう事は重々承知していますが、余りに音の芯ばかりを極めてもやはりツマラナイとオジサンは思います。

だんだん何を言いたいのか分からなくなってきましたので、この辺で止めますが、最近のオジサンは「音数を減らし、響きをより多く出す」方向へシフトしています。例えばオーケストラを聴いた時、ヴァイオリンが何丁居るとか、チェロは何丁居るとかを気にするのではなく、全体の響きをより大事にしたいと思うようになりました(やっと気付いたか!)

40年もオーディオをいじり、クラシック音楽を聴いて来て「今更何を言うか!」と叱られそうですが、やっと気付いた感じです。

「木を見て森を見ず」の例え通り、重箱の隅を突き、自らの装置の粗探しをするのではなく、バッハやモーツァルトの音楽に身を委ねる様な聴き方をしようと思います。

しかしこれはあくまでもオジサンの個人的な見解です。再生音は人それぞれ「再生音は人格を表す」と言ったのも五味康佑氏だったと思いますが、各個人がどの様な再生音を目指しても良いのだと思います。頑張りましょう。