台風26号の思い出

今週末も雨の様で、明日は台風24号の襲来で大荒れの空模様になりそうですが、皆さん既に台風に備えた準備は大丈夫でしょうか?

おはようございます、オジサンです。

なんだか台風の大安売りの様に台風が日本列島にやって来ます。今週末も大荒れの天気になりそうで、今朝もこうしてコメダ珈琲でブログの更新をしています。

現在時刻、7時22分です。

今年は本当に台風の発生も、日本にやって来る台風の数も例年になく多く、そのほとんどが大型、又は超大型って言うんですから、なんだかなぁと思ってしまうオジサンです。

今日はそんな台風の、オジサンの思い出を書いてみたいと思います。なんだか冗談のような話ですが、本当の話しです。

昭和41年(1966年)

昭和41年と言えばオジサンはまだかわゆい小学生で、学校で悪さばかりしていた頃です。今日はその昭和41年にオジサンの住む町を襲った、台風26号の事を書いてみたいと思います。既に半世紀以上前の記憶ですから、相当怪しい部分も有ると思いますが、皆さん暖かい気持ちで許してあげて下さい。

この頃のオジサンは、当時TVアニメだった「スパージェッター」(この年の1月まで放送されていた?)に憧れ、学校に「流星号」が迎えに来てくれる事を本気で信じていた頃です。校舎の窓から流星号に飛び乗り、颯爽と帰って行く自分の姿を本気で夢想しているような、夢見る少年でした。

日本は昭和39年(1964年)の東京オリンピックも無事に終わり、本当の高度成長期を迎え、数年前に発売された即席ラーメンが一般家庭に浸透した頃です。オジサンは記憶が正しければオジサンは「マルちゃんのハイラーメン」が好きで、良く食べていた記憶が有ります。どんぶりにラーメンを入れ、お湯を掛けて皿で蓋をして、できるのを楽しみにしていました。純真無垢な少年だったんですねぇ・・・今の姿からは想像できない!

今の様なカップラーメンが出来るのははまだまだ先の話しで、「あさま山荘事件」(1972年)で機動隊員が雪の積もる現場でカップラーメンを食べる姿が全国放送され、全国に広まったと言われるのは有名な話しです。

日本各地では各種工場がフル稼働をし、有害な煙や有害な排水をバンバン出していた頃です。大きな社会問題となるのはもう少し先の話しですが、池田内閣が打ち出した「所得倍増計画」の真っただ中にあった頃で、「エコノミックアニマル」と日本人が言われたのもこの時代だと思います。日本のお父さんは本当に良く働いていました。今は長時間労働が社会問題となていますが、そんなのは比べモノにならないくらい当時のお父さん達は働いていました。それが良いか悪いかは別として、そのころ頑張っていたお父さん方から見れば、「今の世の中、甘っちょろいぜ!」と言う事になるんだと思います。

台風26号

さて本題の台風26号です。台風26号は24号とほぼ同時に日本列島を襲い、24号は西日本を、26号は中部地方を直撃しました。オジサンの住む町に大きな影響を与えたのは26号の方で、本当にすごい台風でした。

台風26号が中部地方に最接近し上陸したのは9月25日の未明と言うか、24日の夜中だったと思います。オジサンはお袋と弟の3人で爺さんの家に避難していました。

当時オジサンが住んでいた家は本当に海のすぐ近くで、防波堤のすぐ脇に有ったので高波、、高潮の危険は非常に高かったので、台風26号の接近に備え避難していました。

一方オヤジはやはり家が心配だった様で、近所の煮干し屋に住み込みで働いていた若い方(確かツネさんと呼んでいた)と一緒に家に残りました。

夜中の大雨、大風は本当にすごかったですねぇ。爺さんの家は海岸から1Km程離れていますので、高潮、高波の心配は無いのですが、風がものすごく吹き荒れ、古い家でしたから家じゅうがガタガタ震えていました。それでもオジサンはグッスリ寝ていたと、お袋に後から聞かされました。

台風が去り、翌日の朝は結構良い天気だっと思いますが、オジサンの記憶違いかもしれません。

ボートが屋根に・・・

台風が去り、一夜が明けた翌日、オジサン達は家を見に行きました。オヤジが生きているか、家はどうなているか?

避難する時はオヤジが送ってくれましたが、その日の朝、お袋は片手に荷物を持ち、弟を背負ってオジサンの手を引きながら約1Kmの道を急ぎました。家が見える所まで来て、無事家が立っている事を確認してお袋はホッとした様で「よかった~」と一言漏らした事を覚えています。オジサンは別に何も考えなかったし、感じなかったと思います。

しか~し、家に近付くにつれ家の様子がおかしい事に気づきました。なんと、屋根にボートが刺さってる~!

お袋は急いで家に入り、オヤジを呼びます。でも返事が有りません・・・。この時お袋は、てっきり波に浚われたと思ったそうです(後日談)。何度か呼ぶうち、遠くからオヤジの声が聞えます・・・なんと屋根の上で煮干し屋のツネさんとボートを引っ張り出している最中でした。

波が防波堤まで初めて来た

オジサンの住んでいた辺りは、海岸線から防波堤までおよそ100m位の距離が有り、なだらかな坂になっていました。それは今も殆ど変わりません。

海岸には多くの釣りや地引網用のボート(船と言うには小さい)が置いてあります。当時のモノは、今の様な合成樹脂でできたモノではなく木製で非常に重たいのです。地元の漁師が地引網を引くためのボートは多少大きいモノも有りますが、漁船と呼べるほどのモノでは有りません。オジサンの家にも小さな3人乗りのボートが有り、良くオヤジと釣りに出掛けました。

どれほど海が荒れても防波堤まで波が来るような事は無かったのですが、台風26号で初めて防波堤まで波が来たようです。それまでのなだらかだった海岸が波で削られガタガタになっていました。

おそらくその波で持ち上げられたボートが風で飛ばされ、家の屋根に刺さったんだと思います。それほど強烈な台風だったんですねぇ。

防波堤まで波が来たのはその時1回切りだと思います。

防波堤の海側に有った地元漁師の網小屋(地引網を置いておく小屋)も煮干し屋の工場も、影も形も無くなっていました。

その後

ボートが屋根に刺さって屋根に大穴が開いた家にその後3年住み続けました。勿論屋根の穴は修理しましたが・・・。

煮干し屋はこの台風被害を機に移転したのか、商売をやめてしまったのかオジサンは知りませんが、ツネさんは地元の秋田に帰ったと聞きました。その後の消息は不明です。ツネさんはオジサンをすごく可愛がってくれて、一緒に風呂に入ったり、釣りも一緒に行った覚えが有ります。いつもおじさんちで夕飯を食べ、遊んでくれました。すごく優しい人でした。近所で捕まえたシマヘビを食べた時は無茶苦茶驚きましたが・・・。

台風26号から3年してオジサン達家族は爺さんの家の近くに引っ越しました。理由は色々有ったと思いますが、それは大人の事情であり、オジサンには分からい事です。

今でもオジサンは昔住んでいた所に行ってみる事が有ります。数年に1度位ですが、当時の面影は無く、奇麗に整備され防波堤も高くなっています。

さてさて、つらつらと書いているうちに時間となってしまいました。

地球環境が変化している昨今、今までに無い気象現象がまだまだ起こる可能性があります。予測できない災害はともかく、台風の様な数日前から接近が予想される災害なら何とか被災を回避できる可能性があります。皆さん十分ご注意下さい。早目の対策、早目の避難・・・これが被災者にならないコツです。