3.11を横浜で経験しました

大変な経験でした・・・3.11

オジサンの経験なんて現地の方々から見れば屁みたいなものですが、あれほど大きな地震を経験したのは初めてでした。

こんにちは、オジサンです。

 

2011年3月11日、東日本大震災の日、オジサンは労働安全関係の資格取得のため、横浜は関内にあった講習会場で講習会を受講していました。3月11日は講習会2日目で、丁度地震が発生した時間、14時46分は最後の実習で、講習会場に大きな機械(金属製の模型)が運び込まれ、受講者は何名かの班に分かれ、講師の話を聞き始めたところでした。金属製の模型は大きさが2~3m、重さは全て100Kgを超える物で、下に車が付いていて、移動できるようになっていました。

ドドーンと言う大きな音とともに、縦とも横とも、或いはその両方が同時に起こったような地震で、車止めをしていたにも関わらず模型が部屋の隅から隅へ転げまわりました。当日の受講者は30名程度だったと思いますが、いきなりの揺れに室内はパニックになり、大声で叫ぶ者、その場に座り込む者、一目散に部屋から飛び出して行く者など、様々でした。この光景は7年が経とうとしている今でも鮮明に思い出す事が出来ます。

いったいどのくらいの時間揺れていたのか・・・長いようにも感じましたし、あっという間の出来事だった様な気もします。オジサンは椅子に座り、模型に当たらない様に身を避け、何とかケガをせずに済みましたが、何人かは模型が身体に当たり、打撲を負った様でした。

揺れが収まって講師の指示でビルの外に出てみると、ビルと道路の間に10㎝程度の隙間が出来ていたし、隣のビルには横に亀裂が入り、非常階段では何人かの女性がうずくまったまま動けなくなっていました。

いったい何が起こったのか・・・

地震だと言う事は分かりましたが、震源地や地震の規模などの情報は全くなく、不安なまま講習会は終了、このまま帰ってくれと講習会の主催者から言われましたので、とりあえず会場を後にJR関内駅に向かいました。

そこで見た光景は今でも覚えています。関内駅の壁の一部は崩れ落ち、駅前では駅員の方が運転停止中のアナウンスをハンドマイクでしており、駅の入り口には立ち入り禁止のテープが張ってありました。

オジサンは内心『えぇ』と思いました。横浜からオジサンの住む町までは、JRの在来線で2時間程度掛かりますので、歩いて帰るのは勿論無理な話し・・・。ましてこの様な経験は今までにした事が無かったので、どうして良いか分からず、『さて、どうしたものか』と考えていると同じ駅に先ほどの講習会で同じ班だった2人(男女)が居ました。2人も遠くから来ている受講者で、オジサンと偶然にも同じ方向でした。

1人で動くより、3人で動いた方が良いと言う事になり、3人はこの後行動を共にしました。

水・食料・避難場所・・・

これまた偶然ですが、オジサンを含めたこの3人、会社で防災の仕事もしており、災害時の行動には非常に精通した3人でした。

とにかくどの程度の災害が発生し、インフラ等がどうなっているのか、この時点では皆目情報が無く、この後どうなるのか、さっぱり見当も付きませんでした。

こんな時、慌てて動いても良い事は無いと分かって居ましたので、とにかく必要な物を手に入れる事になり、近くでコンビニを探し水と食料を手に入れました。

水も食料も何時まで分を確保すれば良いのか見当が付きませんでしたので、とにかく持てるだけ買う事にし、棚を漁って買い物をしました。

この時、16時位だったと記憶していますが、この時点では商品棚や冷蔵庫はほぼ満杯の状態でまだまだ選ぶ余地が有りましたが、この後19時頃覗いたコンビニでは食品の棚も冷蔵庫も空っぽで、コンビニはただ開いているだけといった様相でした。

とりあえずの飲食料品が手に入れば、次は避難所探しです。女性が一緒だったので、トイレは必須です。トイレといえば駅が真っ先に思い浮かびました。周辺のビルにも確かにトイレは有りますが、誰ともわからない人間を中に入れてくれる可能性は低いので、公共性の高い駅・・・JR横浜駅を3人は目指しました。

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3.11当日は3月にしては寒い日で、関内から横浜駅に向かう途中は雪が舞っていました。日も段々西に傾いて来るし、気温は下がってくるは、携帯は繋がらないわで、不安は募る一方でしたが、グチグチ言っても仕方ない事です。

会社でも心配しているのは分かってましたが、肝心の携帯が役に立たないんじゃしょうがないです・・・と思っていると、一緒に行動を共にしていた2人が『公衆電話が有ったら会社に電話しよう』と言い出しました。

最近は携帯の普及に伴い、公衆電話の数も激減したし、あったとしてもカード式ばかりで、自分はテレカなんて持っていなかったのですが、2人は『出張時はテレカを持って行くように会社から指示されていた』そうで、1000円のテレカをそれぞれ持っていました。なんと言う素晴らしい会社・・なんと素晴らしい2人・・・。

二人のお陰でオジサンも会社に連絡を入れる事が出来ました。携帯はダメでも講習電話はOK・・・これ日本の常識です。余談ですが、3.11以降、オジサンも財布にテレカを入れるようになりました。幸い今のところ未使用ですが、用心のために・・・。

余談ですが、3人の持っていた携帯はそれぞれ会社が異なりました。

3人の中で最も早く復旧したのは犬のお父さんのコマーシャルで有名な会社、私が持っていたa〇は2番目、最後はNTTの関連会社でした。契約数の関係もあるようなので、この情報はあてになりませんが・・・。

 

横浜駅は大パニック・・・

寒い思いをして横浜駅にたどり着くと、そこは人で溢れていました。駅構内どころか、駅に近づく事さえ困難を極め、どこも人で埋め尽くされていました。

こんな状態ではトイレを使うなんて絶対不可能・・・目的のトイレを確保できないならここに居る必要は有りません。もちろん電車も動いていないわけですから・・・。

横浜駅を後にしようとした時、駅員のアナウンスが聴こえました。『横浜駅は閉鎖しますので、駅構内から出て下さい。避難所はパシフィコ横浜です』・・。この時時間は18:30でした。

また戻るのかよぅ・・・と思いつつ、行く当てもないのでまた関内方面に向かって歩き始めました。途中の運河で津波を見ました。音も無く、川面がセリ上がる光景は異様に感じました。初めて見た津波です。

 

パシフィコ横浜は養鶏場状態・・・

オジサンたち3人がパシフィコ横浜に着いた時、中は満員御礼の状態でした。

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あの広い展示会場に人がびっしり入っていて、座っている人は首だけしか動かせない養鶏場状態でした。オジサン達3人は、トイレが目的地でしたので、展示会場には入らず、トイレ横の通路に陣取り、コンビニで手に入れたパンと飲み物で腹を満たしました。もちろんトイレも済ませました。

何時頃か記憶が定かでは有りませんが・・・22時頃だったでしょうか、横浜市の職員の方が毛布と水を持って避難所に現れました。地震発生から既に7時間以上が経っていましたが、毛布は有りがたかったです。さっきも書いた通り、雪が降る様な寒い日でしたので、厚着はしていましたが、コンクリートの床に座った状態では下からシンシンと冷えて来ます。

市営地下鉄が動いた・・・

パシフィコ横浜ではかなりの情報を手に入れる事が出来ましたが、まだまだ何が起こっているのか暗中模索の状態は変わりません。

さっき見た津波の事が気になり、『こんな海沿いの避難所で大丈夫?』と心配していると、市の職員の方が『横浜市営地下鉄が動きました』と言うアナウンスをハンドマイクで流し始めました。とは言っても、どの区間が運転再開になったか・・・。

そのアナウンスを聞いて、『とにかく新横浜駅まで行けるなら行こう』と言う事になり、パシフィコ横浜を後に地下鉄桜木町駅をに向かいました。

横浜駅で・・・

市営地下鉄は一部区間の再開でしたが、幸い新横浜駅までは行く事が出来ました。

この時、3月12日の0時過ぎだったと思います。地下鉄の駅にはそれほど人はおらず、到着した電車にも乗客はまばらでした。

横浜駅では、駅待合室を開放しており、水とダンボールを配布していました。既に毛布は底をつき、段ボールを床に敷いて横になっている人、待合室のテレビを食い入るように見ている人など様々でした。

オジサン達3人もダンボールをもらい、人のいる所を避けて場所を確保しました。

そしてテレビに映し出された光景に目を奪われました。

阪神大震災の時、朝テレビをつけて『朝からエグイ番組やってるなぁ』と寝ぼけ眼で見た神戸の様子と同じ光景が待合室のテレビに映し出されていました。『これはエライ事になった』と言うのが第一印象です。

しかも燃え盛っているのは東北の大都市、仙台市との事。仙台には仲の良い友達の家が有ります。早速電話を掛けてみましたが、メールは復旧してるものの、通話はいまだ不可でした。とりあえずメールを送り、身体を横にしましたが眠れるはずも有りません。

友達からメールの返信が有ったのは、明け方の4時頃でした。無事が確認でき、安心してウトウトしていると、新幹線運転再開のアナウンスが有りました。

『これで帰れる』と言う安心感と『東北はエライ事になっている』と言う心配、更には家族の事も心配になり、新横浜に来た最初の新幹線に乗って帰って来ました。

行動を共にした2人はオジサンより手前の駅で降りて行きました。本当に助かりました。ありがとうございました。

これがオジサンの3.11体験です。帰宅困難者と言う言葉がニュースを賑わせたのもこれが最初だったと思います。帰宅困難だった方、ご苦労様でした。

それにも増して、いまだ故郷に帰れない東北の方々、親族や友人を亡くされた方々、本当に大変だと思います。

もうすぐ、3.11がやって来ます。1日も早く故郷に帰れる事を心よりお祈りいたします。